時空をこえる本の旅50選
貴重書の解説本としては珍しく、読みやすい文章で、分かりやすく書いてあり、思ったより気楽に読めました。最初から終わりまで続けて読む様な本ではないので、随筆集でも読む様に、気の向いた時に、暇なときに、寝れない時に、2−3項目を読むのに最適です。結構新しい事も知りました。異色の解説本ですね。値段も手ごろだし、お勧めです。
イエズス会の世界戦略 (講談社選書メチエ)
本書は1960年生まれの近世アジアキリスト教史研究者が2006年に刊行した本であり、一次史料を多用して、従来軽視されてきたイエズス会宣教師の世俗的側面に、アジア規模で焦点を当てる。本書の主張は以下の通りである。第一に、デマルカシオンによるポルトガルの航海領域と布教保護権が及ぶ範囲の設定が、同国王からイエズス会へのインド布教再建の要請によって、後のイエズス会の布教空間を準備したこと、第二にこの要請によって同国王は植民地支配の正当化を企て、イエズス会は同国王から渡航の便宜や経済的援助を獲得できたこと、第三にイエズス会は個別布教地の情報を相互に交換することによって、会員間の結束の強化や、現地の実情に合わせた布教戦略の練磨を図ったこと、第四に早い時期から各地でイエズス会が採っていた適応主義政策について、本書はそれを文化面のみならず経済面でも見出していること、第五にイエズス会の財源は主に信者からの喜捨、ポルトガル国王・教皇からの給付金、ポルトガルの行政官であるインド副王への贈答品、インドの不動産(土地・村落・家屋の賃貸)や公認・非公認の貿易(斡旋や仲介も含む)からの収入に由来し、その際に集金機関となったのがコレジオであること、第六にしかしながらイエズス会の急拡大と特に国王給付金の遅配により、イエズス会は常に資金不足に悩まされ、事業への深入りにより会憲の清貧義務に違反せざるを得なかったこと、第七に戦乱や異教徒による迫害に対する自衛のために、イエズス会は自ら軍事活動に関与せざるを得ず、その過程で初めてポルトガルとの軍事的連携が深化してゆくが、会本部は軍事介入に消極的であること等である。このように本書は、イエズス会の光と影の側面を、あくまでもイエズス会員がアジア各地で直面した状況との関連で実証的に意義づけており、安易な弁護からも安易な非難からも距離を置いている。
完徳の道 (岩波文庫 青 817-1)
本作はアビラのテレサが修道女たちに贈った霊操(魂の体操・修行法)の手引書である。
内容は謙遜・清貧を守り天主への奉仕を貫くことが説かれている。テレサの筆は明確で厳格しかし愛情に溢れている。いかなる無宗教家であっても彼女の意志の強さに感動するのではないだろうか。
修道者でなくとも「完徳」の道を志す方に読んでいただきたい。
信長と十字架 ―「天下布武」の真実を追う (集英社新書)
確かに 当時の権力者の暗殺が 単純でないだろうという命題は当然 残ります。また 日本史を 日本という閉じた世界の中で 解釈するよりも 広い範囲で解釈してみるのも、私には 間違えではないと思うのですが。
当時の ヨーロッパ人のアジア進出というのは、中国人やアラブ人と組んだ
限定的な物という感じがしますし、立花先生は 参考文献にはあげていませんが、史料を調べた 八切止夫の亜流ではないかという気がしますし、潜在的キリシタンの名前を挙げていますが、高山右近を除いて、さらっとすぐに転んだというのを忘れるべきではないでしょう。
読み方 評価の仕方が 難しい本です。
神性の流れる光―マクデブルクのメヒティルト (ドイツ神秘主義叢書)
中世の女性神秘家マクデブルクのメヒティルトが、信仰に於ける神秘体験を官能性豊かに著した書です。
まず驚嘆させられるのは、信仰と神秘体験に纏わる描写の豊穣です。信仰の告白に留まらず、天上や煉獄の光景、神との交感といった神秘体験が、豊かな想像力の下で 象徴、寓喩、頓呼、引用、翻案といった技法を駆使して描かれます。描写の精緻は秀逸な文学作品と呼んで差し支えなく、それが読む者の心に惹き起す感慨は凡百の文学作品の及ばないところです。メヒティルトが神への愛の奔流に身を任せ、俗世の堕落に心を擦り減らし、神との交感に悦ぶ時、彼女の揺動は私達にも伝播し、私達の精神と肉体を遥か深いところで疼かせます。
そして何よりも本書を嘆賞されるべきものとしているのは、女性の受容性によって初めて可能となるであろう、魂と神性の交感の官能的な鮮烈と濃密です。性愛を連想させる表現で語られるそれは官能的な場面を私達に現前せしめますが、その本質はどこまでも清醇で澄明なものです。神性との交感と法悦の官能性が、知性を旨として神との交感を果たそうとする男性聖職者の嫉妬を招き、異端との謂われない誹りを被ったことも首肯できます。
メヒティルトの神秘体験が高い表現力で豊穣に描かれているために、これを読む私達にも身に迫って感じられますが、彼女の体験を可能にしたのは謙譲に立脚した厳格な信仰であることを忘れてはいけません。彼女の体験の表象のみに目を奪われるのではなく、彼女の憧憬、信心、敬虔、苦痛、苦悩、法悦といった魂の遍歴にこそ思いを致すべきでしょう。本書を秀異たらしめているのはここで描かれている扇情的な外殻ではなく、只管に神のみを求め、神へのみ愛を捧げる魂の生を突き動かす官能性にあるのです。そして、官能性とはここではもはや身体を離れた生の奔流の様を表す言葉なのでしょう。