百代の過客 日記にみる日本人 (講談社学術文庫)
ドナルド・キーンによれば、日記を文学形式として高く評価している国は、日本だけだという。この本では、平安時代から江戸時代までの約80にも上る日記を紹介し、その独自性を明らかにしようとしている。
それぞれの日記について、キーンの感想が簡潔に数ページ程度で綴られている。その形式は、まるでこの書の主題である日記のようだ。
この書のクライマックスは、紛れもなく、江戸時代の松尾芭蕉の奥の細道である。キーンは、奥の細道を、紀行文学として、あるいは詩と散文の融合の巧みさなどを、世界文学と比較しながら、その芸術性を紹介している。
キーンは、その博学をさりげなく展開しながら、しかし、表面的には、まるで普通の人間が各日記を読んでその感想を記すように、自分の素直な感想をわかりやすい表現で、この書を書いている。
この書を書くきっかけのひとつは、キーンが太平洋戦争の時に、日本人が戦地に残した日記を読む機会があったからだ、というエピソードを紹介している。
平安時代はあれほど盛んであった女流作家の活躍が、鎌倉時代以降はひっそりと息をひそめてしまう。江戸時代にも、いくつかの作品はあるが、女流文学の復活は、近代の訪れをまつ必要があった。
日本人は、短歌や俳句に代表されるように、刹那的な感情を表現することを芸術の本意としている。代表的な物語文学である源氏物語も、その内容は、印象的な様々なエピソードの積み重ねで、これといった大きなテーマやストーリーはない。
その意味で、日記という文学形式は、もっとも日本らしい文学形式の1つと言えるだろう。
日本人と日本文化 (中公文庫)
日本文化のいろいろな断面を浮き彫りにしてくれます。長距離の汽車でとなり同志の司馬、キーンの日本文化に対する世間話をたまたま乗り合わせて立ち聞きしているよう。読者に安心感、平易感をかんじさせます。司馬、キーン両氏の学識の深さを改めて認識しました。
対訳 21世紀に生きる君たちへ
司馬さんの記念館を訪問した時、「21世紀に生きる君たちへ」の碑を拝見して、胸に感動がこみ上げてきました。本の中で、「もし、未来という町角で、私が君たちを呼び止めることができたら、どんなにいいだろう。」と、司馬さんは、まるで歴史の登場人物のように語られています。そして、「自然」と「人間」。「生きる」ということを、やさしく語られています。僕は、この本を高校生の娘にプレゼントしました。それは、親としての自分を見つめながら、子どもに語り継いでいかねればならないことが、この書に記されているような気がしたからです。司馬さんのようにうまく伝えきれないのですが、きっと司馬さんと同じ気持ちを、僕も感じているんだと思います。幸い英語の対訳がありましから、娘も喜んでいました。
百代の過客―日記にみる日本人 (上) (朝日選書 (259))
【お客様は、2011/4/5にこの商品を注文しました。】
拝啓
いかがお過ごしでしょうか。(?o?);;;
さて、NHKクローズアップ現代、拝見しました。
(中略)
『完全な文士』。
とっても“Cool”なGagですね。
しかし、とっても、泣けてきます。(;o;)
NHKさんも、というか、インタビュアーさん(?)は、
すぐ気が付いたのでしょうか・・・。(?o?);;;
あの音楽をかぶせないと、気が付かない人が
大勢だったかも知れませんネ♪(@o@;;;
もちろん、このレビューでも、『鈍感な』方々のために、
敢えて“ネタばらし”は致しません♪(?o?;;;
では、今後のご活躍をご期待申し上げます。
敬具
徒然草 (英文版)―Essays in Idleness (タトルクラシックス )
これ以上の翻訳は考えられないと思います。然し原文と並べてみるとそこには何かの違いがあります。これは何でしょうか、翻訳の限界を考える上でいい参考になると思います。