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慰安婦とは 従軍慰安婦 (岩波新書)

 日本が体験した近代の戦争は、様々な角度から史料が発掘・収集され分析・考察が加えられている。歳月の経過は体験の忘却や史料の逸失を招くが、反対に時を潜ることによって見えてくるものも多い。従軍慰安婦の問題はその最たるものだろう。女性蔑視、植民地蔑視の価値観が無意識裡にも支配的だった戦後しばらくは埋没していた事実が、1980年代になって顕在化したのは価値観の変容が大きな要因にちがいない。元従軍慰安婦が名乗り出てそれに社会が衝撃を受けたのも戦後40年という歳月をかけた意識状況の変化を必要としたのだ。
 本書は、日本軍が主導して占領地に設けた慰安所を公的文書、将兵の日記、体験記などの史料をもって詳細に明らかにしていく。慰安所の創設は第一次上海事変が勃発した1932年であるとし、日中戦争の長期化、太平洋戦争の開始と拡大とともに慰安所が増殖していく経過をたどる。
 慰安所が設けられた理由は4つある。強姦事件を予防する。性病罹患を防ぐ。将兵に慰安を提供する。防諜対策にあてる。派遣された最大200万人の日本軍将兵の性欲処理は、軍当局にとって重要な課題であっただろうが、公娼制度があった時代であるから、軍が管理する慰安所の開設は必要悪として当然視されたことは容易に想像できる。
 慰安所の実態についても当事者の記録や体験記からうかがうことができる。
 慰安婦の人数や出身地、徴集方法の全貌は明確ではないが、史料や当事者の証言から推測できる。日本人慰安婦は娼妓出身であり自発性の関与もある程度認められるが、多数を占めた朝鮮、台湾の慰安婦は一般人であり、目的を偽られたり借金で縛られたりした者が多い。徴集に直接関わったのは民間業者であるが、現地の警察や憲兵隊の黙認あるいは公認がなくては実施できなかっただろう。それは取りも直さず上級の指令があったからだろう。
 占領下インドネシアで日本軍が設けた慰安所は、収容所のオランダ人女性を強制的に慰安婦にした。戦後のBC級裁判では、日本軍将校13人が有罪になり1人が死刑に処せられている。その裁判の記録も紹介されていて衝撃を受けた。
 敗戦後の日本で対連合軍用の慰安所が日本のリードで開設されたというのには驚いた。また各国軍隊の慰安所にも触れられる。巻末には詳しい参考文献一覧がある。慰安所と慰安婦について知り考えるためのガイドとしてコンパクトながら密度の濃い書である。 従軍慰安婦 (岩波新書) 関連情報

慰安婦とは 日本軍「慰安婦」制度とは何か (岩波ブックレット 784)

吉見氏の「慰安婦」問題に関する単著としては、最新の本である。岩波新書「従軍慰安婦」の増補を望みたいところだが、その後の研究状況を概観するのには十分だろう。今回は「評価」するとかではなく、このブックレットを読み終わった方への参考となればと思い、本書の内容とは直接には関係ない話を記述した。その程度のものと思って読んで頂きたい。昨年、日本軍の慰安所研究の画期となる資料が、韓国で公表された。ビルマとシンガポールで日本軍の慰安所の管理人をしていた男性の日記で、☆「『日本軍慰安所管理人の日記』(日本語翻訳版)」で、検索すれば邦訳と解題を掲載したサイトがすぐに引っかかる。ざっと読んだだけでは、慰安所の帳場作業の記述を除くと、管理人は呑気に遊んでいると言う印象しか受けない。事実、韓国のニューライトと言われる安秉直ソウル大学校教授の解題をつけて、日記が公表された時、慰安婦が映画を見に外出している、郷里に送金している等の記述から、さすが安秉直、慰安婦が「性奴隷」でないと証明する画期的な資料が発見されたと、一部で騒がれた。しかし、これは新発見でもなんでもない。秦郁彦や西岡力らが、証言の信ぴょう性にイチャモンをつけていた、元慰安婦の文玉珠は、ラングーン時代には、他の慰安所にいた頃と異なり、休日に買い物を楽しむ余裕があったこと、野戦郵便局にチップを貯金をしていたことなどを証言しているが、朝鮮人の「性奴隷」にあるまじき「幸福すぎる」姿であると非難されてきた。三十数年前、沖縄の朝鮮人慰安婦を描いた「沖縄のハルモニ」を著した山谷哲夫は、日記を書いた「慰安所管理人」が朝鮮人であることから、「韓国人にとって不都合な真実」が記述された資料が見つかったと指摘したが、既に文玉珠の属した慰安所の管理人は、マツモトと言う朝鮮人であったことが分かっている。これなど、山谷が知らないはずがない。要するに、現時点で、自分の主張しようとする意見に都合のよい情報が見つかったと言って、騒ぎたてているだけなのである。世宗大学の朴祐河に至ってはもう論外と言う他なく、ニューライトとはとても思えない解題を書いた安秉直に、日記の記述と関係ない支離滅裂なモンクをつけることで、自分のこれまでの主張を繰り返している。公表された日記は、1943年1月から1944年12月まで、要するに2年分(日記2冊)であるが、実は「新発見」は、ほとんどない。「慰安所管理人」の仕事内容ですら、「武漢兵站」の山田清吉の証言で予想できた。要は普通の公娼宿の帳場の仕事とほとんど変わりない。実際の朝鮮での慰安婦募集のやり方など、日記からは時期的にも欠落している。ならば、解題にある、朝鮮人慰安婦703人を乗せた第四次慰安団が、1942年7月に釜山を出港してラングーン港に到着と言うのはどうだろうか。実は、この部分すら「新発見」ではないし、日記に直接、そのことが記載されているわけではないのだ。では、何が重要なのだろうか。まず、この日記が、ビルマ戦線での、慰安婦に関する最も基礎的な資料である、米軍調書の裏付けとなると言う視点から見てみよう。どちらも行ごと検索すれば、日本語訳が読めるサイトにたどり着く。☆「アメリカ戦時情報局心理作戦班 日本人捕虜尋問報告 第49号」☆「連合軍通訳翻訳部(ATIS)調査報告第120号」今回は、連合軍通訳翻訳部(ATIS)調査報告第120号から引用する(コピペ)。引用文中の「捕虜」は、「日本人のキタムラ」と読み替えて頂いて問題ない。---捕虜、その妻、および義理の姉妹は、朝鮮の京城にて食堂経営者としてそれなりに稼いでいたが、客足は減ってきていた。彼らはより多く稼ぐ機会を探していたので、「慰安婦」を京城からビルマへ連れて行く許可を京城の陸軍司令部に申請した。捕虜によると、その示唆は、もともと陸軍司令部から出たもので、京城にいる捕虜と同じような多数の日本人「実業家」たちに伝えられていた。捕虜は朝鮮人女性22名を購入し、女性の性格、容姿、年齢に応じて300から1000円を彼女の家族に支払った。これら22名の女性の年齢は19から31歳であった。女性たちは捕虜の占有財産となっていたので、陸軍は彼女たちから利益を得なかった。朝鮮軍司令部は、日本陸軍の全ての軍司令部宛ての書簡を捕虜に与え、移送、食糧、医療など、捕虜が必要とした場合の援助は全て提供するよう要請した。食堂を続けるために義理の姉妹を残して、捕虜とその妻は、22名の女性を連れて、女性703名(全員が朝鮮人)および日本人男女90名程度(全員が捕虜と同じようないかがわしい者たち)からなる一行で、1942年7月11日に釜山を出航した。7隻からなる船団の中で、一行は4000トンの旅客船に搭乗して航行した。陸軍司令部からは無料乗船券が提供されたが、航海中の食事は捕虜が全額支払った。台湾に寄港した際、シンガポールへ向かう女性22名が新たに乗船した。その後、シンガポールに寄港した際に、一行は別の船に乗り換え、1942年8月20日にラングーンに到着した。ラングーンで、一行は20から30名ずつのグループに分けられ、各グループは異なった連隊、部隊、もしくは中隊に配属され、ビルマ各地へ分散して行ったため、各グループが独自の売春宿を持つようになった。---つまり、米軍調書が公表された段階で、朝鮮軍の司令部が慰安婦を募集し、送り出したと言うのは、分かっていた話なのである。なぜ、事実として確定しなかったかと言うと、もちろんキタムラが、ウソをついている可能性があるからだ。そうは思えないと言うのは、普通の感想だと思うが、とにかく、米軍調書単体では、決定的な証拠になりえないとされてきた。日記の著者は、「いかがわしい者たち」の一員として、このキタムラと同じ船に乗ってビルマにやって来た。朝鮮人は、全員、日本名を名乗っていたので、間違いと言う訳ではないが、「日本人男女90名」のうち、約半分は朝鮮人である。それを除けば、米軍が如何にキタムラから、正確に情報を聞き出していたかが分かる。次に、有名な元慰安婦の文玉珠の証言の裏付けと言う意味もある。☆教科書に書かれなかった戦争 (Part 22)「ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だつた私」関連箇所だけでも引用したいのだが長くなる、以下は私の要約である。---文玉珠は、18歳の時、郷里の大邱にて、軍隊の食堂の従業員に応募、マツモトに引率された朝鮮人女性17名は釜山を出港、7隻の船団の前6隻には軍人が乗り、女性達は最後尾の貨物船の船倉に、他の業者に率いられた朝鮮人女性とともに入れられた。その後、シンガポール経由でラングーン港に入港。軍隊のトラックが十数台並び、将校が集まって、業者毎に配属を決めるくじ引きの後、トラックの荷台に載せられ、兵隊の運転手、下士官、将校とともにマンダレーに運ばれ、慰安所に到着。そこで初めて慰安婦として働かされることを告げられる。---補足しておくと、第四次慰安団の703人の女性達は、全員、慰安所で働くことを知らされていなかったのは確実である。これは、親に前借金を渡して「購入」した場合も同様、親にも慰安所で働くことは告げられない。そして、現地に着くまで、秘匿するのは業者の意思ではない。慰安婦として働くことが、輸送中に女性達に広まれば、厄介事になるのは目に見えている。これも確実に軍の指示である。文玉珠の証言は、アメリカ軍の調書と、ほとんど矛盾もなく、この二つの資料で十分なように見られるが、秦郁彦や西岡力は、文玉珠の証言に矛盾があるとし、あたかも証言全体に信頼性がないかのように宣伝した。つまり、文の証言と米軍調書だけでは足りず、客観的資料が出てこないかぎり、文証言は日の目を見ない。これも酷い話だが、実際に、日本の一部では、文の証言は、そういう扱いを受けてきた。これは、文の書いた本の、ユーザーレビューの評価を見て頂ければ、即座に分かるはずである。では、もっと客観的な資料とは、どのようなものか。常識的に考えて、明白な指令の形で、慰安婦募集を指示している、軍や警察、朝鮮総督府による公文書だろう。だが、周知のように、日本軍は内地でも朝鮮でも前線でも、徹底的に公文書を焼却している。しかも、永井和のような研究者が、決定的な資料を発掘して発表したところで、秦や西岡の盲目的な信者に、理解できるわけがない。信者たちには、703人の朝鮮人「売春婦」を業者が集めたのを、運んだだけで軍の関与はその程度と、これまでどおりのことを繰り返せば済む話だ。ところが、軍の慰安所管理システムを支える中間的存在である、慰安所管理人の日記という形で資料が出てきた。ある意味、ここからしか出ない、だが、ここから出たら、全てが芋づる式に繋がると言う内容の資料で、もはや、文玉珠の証言の信ぴょう性は疑いない。日記中に、第四次慰安団でビルマに来た慰安所の経営者名として、大邱人の松本恒と言う名前が見られる。これは、確実に文玉珠のいたマンダレーの大邱館のマツモトである。文玉珠は、日記の書かれた時期、マツモトの元を離れ、アキャブで軍の直接管理による慰安所(乙女亭か)へと移動し、そこからまたブロームに移り、そこの慰安所「乙女」で再びマツモトと出会っているのだ。安秉直は、挺隊協との共同調査で、文玉珠の聞き取りを、担当した人である。このことに気づかないわけがない。解題では、学問的な記述に専念したということだろう。ビルマ戦線での慰安所の実態は、いわばジグソーパズルの、モナリザの顔が判別できるところまで、解明されたのである。ついでに言うと、大規模慰安団の存在と、文玉珠のビルマでの足跡は証明されたかもしれないが、文玉珠が細かいウソをついている可能性もある、文は米軍調書を読んで、軍のくじ引きの話をでっち上げたのではないかと、自称実証史家の秦郁彦氏の愛読者の方なら、反論されるかもしれない。だが、実はもう一つ、決定的な資料がある。☆雲南・ビルマ最前線における慰安婦達−死者は語る/浅野豊美(これもWEBで参照できる)水上源蔵少将の霊を弔う意味でも、そういう人達は、我慢してこの論文を最後まで読んでほしい。その上で、ナニこれと言う人は、おみそれしました好きにしてくださいと言うしかない。次は、日記から読み取れる新事実だ。ようやく、ここからは、文玉珠の証言と、米軍の尋問調書の信頼性を前提として説明できることになった。やれやれだ。簡単に言ってしまえば、この資料によって新しく提示されたのは、「第四次慰安団」という名称だけである。第四次慰安団はラングーンからビルマ各地の慰安所にトラックで散っていく。マツモトに連れられた文玉珠の一行はマンダレーに、悪名高い丸山房安大佐で有名なミッチーナーへは、日本人のキタムラに連れられた一団が、日記の著者である朴の一団はアキャブに。第四次慰安団の朝鮮人女性達は、安が解題で指摘したとおり、全てビルマ戦線の慰安所に送られたと思われる。だとしたら、第三次第四次と言うのは、慰安団のどういう性格を表しているのだろうか。第四次の例で言うと、文玉珠が配置されたマンダレーの慰安所には、他の慰安婦はいなかったと証言している。つまり、新設された慰安所に慰安婦を配置するのが目的であったと思われる。ビルマは南方戦線で、最後に占領された地域である。だとしたら、第一次から第三次までは、フィリピンマレーシアかシンガポール、インドネシア。米軍調書に書かれたビルマの朝鮮人慰安婦の数が、突出して多い事は、長い間、疑問であったが、ビルマが特別なわけではないだろう。南方軍は、師団規模、兵士数などから、「公平」に、慰安所の必要数を割り出し、軍中央にお伺いを立てたはずで、可能な限りサベツなく各地域に割り振られたはずである。ビルマが例外なのではなく、単に他の地域での慰安所の実数がつかめていないだけなのだ。いずれにしろ、大量の慰安婦の「新規需要」をどう埋めるかは、南方軍の「大問題」だったはずだが、太平洋戦争の開戦時期から逆算すると、一月ないしは二月程度の間隔で慰安団は組織され、第三次までで、ビルマ以外の需要を埋めるとなると、各次の慰安団とも、四次と同規模の女性の数が必要となろう。700人×4の単純計算で、2,800人。他に中国戦線の慰安所の継続需要もある上に、同時期の朝鮮はあの完全にナゾに包まれた「関特演」の慰安所の慰安婦需要を埋めたところと推定されている。千田夏光が、朝鮮を「慰安婦の草刈場」と評したのを、改めて思い出す。第四次慰安団の編成の頃は、もうペンペン草も生えない状態だったのだろう。では、どのような経路を辿って、朝鮮軍に依頼が行ったのか、これもある程度推測できる。1942年2月、台湾軍指令部に、南方軍からボルネオに慰安婦を派遣して欲しい旨の依頼が出ている。つまり、南方軍から朝鮮軍の司令部に、募集依頼が出ていたのは間違いない。台湾の例で言うと、台湾軍司令部からは、陸軍省に業者の渡航許可を求める文書が残っているので、朝鮮の場合も、陸軍中央はもちろん、承知の上である。ついでに言えば、ラングーン港に、「慰安婦」達を迎えに行った兵士達には、上等の味噌と醤油が届いたから、取りにいけと言う類の指示しか出ていないはずである。そう、アメリカの黒人奴隷が、南部の港に到着した時と同じ扱いだ。ここまでの記述で、この資料の公表の意義を、少しは伝えられたと思うのだが、改めて、重要な基礎資料が、全て米国と韓国側からしか公表されていないと言うのには、呆れてしまう。おそらく、韓国では、当時の釜山の新聞、雑誌資料の精査が、とっくに始まっているはずだ。最後に、文玉珠の証言のほんの一部を、そのまま引用しよう。マンダレーの慰安所に着いた次の日のことだ。---十七人はいっせいに大声で泣いた。「アイゴー、だまされたわたしが悪かった」「悪いこともしてないのに、なぜこんな目にあわなければならないのか」と。だましたマツモトにくってかかる娘もいた。マツモトは、泣いてるわたしたちに向かって、はじめてここが慰安所であるといった。軍人の相手をすれば金になるのだから、我慢して働くこと、軍人は切符を持ってくるから、それを受け取って、一日分ずつを自分に渡すこと、朝鮮に帰るときに切符を合計した額を四分六に分けて、六分をわたしたちに渡すから、しっかり働くように、などと説明した。泣きながら眠った夜が明けると、軍人たちが並ぶようになった。---第四次慰安団703人の朝鮮人女性達の見た共通の光景であったろう。当然、日記の著者である朴も、アキャブの慰安所で、連れてきた女性達に、マツモトと同じようなことを言ったに違いない。 日本軍「慰安婦」制度とは何か (岩波ブックレット 784) 関連情報

慰安婦とは 「慰安婦」問題とは何だったのか―メディア・NGO・政府の功罪 (中公新書)

「従軍慰安婦」の問題と言うと様々な立場の人が各々の主張を繰り返すので、問題が錯綜している感がある。本書は元慰安婦の方の救済のための「アジア女性基金」の理事の任にあった著者が、その現実を語ったもの。問題が整理されると共に、何が元慰安婦の方の救済を妨げているかを教えてくれる。

この問題は大きく分けて、人道問題と外交・思想問題の二つに分けられるであろう。著者は勿論、前者の「どうやって元慰安婦の方を救うか」という点で骨身を削って来た。だが、そこには後者の壁があると言う。最近、米アメリカ下院議院で「日本政府による公式謝罪を求める」というトンチンカンな決議がなされたが、こうした外交上の駆け引きと共に、日本・韓国のイデオロギストが「アジア女性基金」による救済は"欺瞞"だとして、日本政府以外からの金は受け取らないよう働きかけ、元慰安婦の方の困窮を更に深めていると言う。

また、NPO, NGOと言った美名の組織に対する盲目的な信仰も批判している。著者は、イデオロギーや大義名分あるいは外交カードと言った問題より、「如何にして元慰安婦の方を救うか」という現実的な問題に対処しようとしており、その見識の高さに好感が持てる。「慰安婦問題」を現実の視線から論じた好書。 「慰安婦」問題とは何だったのか―メディア・NGO・政府の功罪 (中公新書) 関連情報

慰安婦とは 日韓歴史認識問題とは何か (叢書・知を究める)

"a-section a-spacing-none reviews celwidget">96人中、83人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。5絶望的なまでに困難な道、しかしそこからしか展望は開けない投稿者勤労読書人 日韓歴史認識問題とは何か (叢書・知を究める) 関連情報



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