教科書に載った小説
私は70年代後半の生まれですが、この中で私が授業で習ったものは、
一作のみでした。
が、そういう「なつかしい」という気持ちがなくても、読み物として
楽しめます。
教科書に載った小説なので、一作一作が短く、読みやすくもありました。
「教科書」というと、構えてしまう方もいらっしゃるかもしれませんが、
さすがに名作ぞろいの短編集といった感じです。
収録作品は、
とんかつ (三浦哲郎)
出口入口 (永井龍男)
絵本 (松下竜一)
ある夜 (広津和郎)
少年の夏 (吉村 昭)
形 (菊地 寛)
良識派 (安部公房)
父の列車 (吉村 康)
竹生島の老僧、水練のこと (古今著門集)
蠅 (横光利一)
ベンチ (リヒター)
雛 (芥川龍之介)
となっています。
機械・春は馬車に乗って (新潮文庫)
横光文学を代表する作品「機械」。
ネームプレート製造所で働く四人が引き起こす騒動を通じて、
人間存在の不確実性が仮借なく暴かれる。
自分が確信を持っている事柄であっても、それが客観的に明瞭な事実であるとは限らない。
当然のことながら、主観的な確信と客観的事実の間には大きな隔たりがあるのだ。
それでは、客観的事実ではない事柄について確信を持っている自分自身とは一体何なのか?
ここで読者は「存在」の迷路に迷い込む。
「誰かもう私に代わって私を審(さば)いてくれ。私が何をして来たか
そんなことを私に聞いたって私の知っていようはずがないのだから。」
このように終わる本作で、横光は人間存在の深淵に迫った。
上海 (岩波文庫)
1925年におきた5・30事件当時の上海を舞台にした小説。
ちなみに文庫版としてはもう一つ講談社文芸文庫からも出ている。岩波文庫版と講談社文芸文庫版
の違いは使用した版の違いで、講談社文芸文庫のほうは初版(だから全部で45章ある)で、岩波のほう
は改訂版(全部で44章)。大きな違いは改訂版では、初版にあった第44章が削除されてること。
リアリズムとか植民地支配の矛盾を抉るとか帝国主義イデオロギーの欺瞞を暴くとかなんてーこととは無縁
で、間違いなくルカーチなんかに非難されてしまうような小説。
「現実の現実的打開のかわりに、漠然としたニヒリズムと現実に主観的・知識人的に対立し、一時的な
激情で共産党員を救ったりしながら結局は現実に押し流されていく」というのは、ある種欠点にもなるのだ
ろうけど、「上海の激動する現実のもたらす、雑然とした混乱」を言語表現し「強烈な感覚的な表現を
作り出す」試みの小説だということは評価すべき。叙情性とか感傷的なものがなく乾いた、ポップな感じの
文章で、まちがいなく映画向き。50年代〜60年代、「穴」とか「黒い十人の女」を撮っていた頃の市川崑
監督に撮ってもらいたかった。
解説によると、この後横光利一は路線を変更したため、昭和の文学の芸術的可能性の一つが挫折した
としている。
日輪・春は馬車に乗って 他八篇 (岩波文庫 緑75-1)
中学生の時、教科書で「蠅」を読んだ。
その印象が頭から離れず、10年以上たった最近この本を買いました。
文章はシンプル、無駄を省いている様な。しかし描かれている情景が映画のように、くっきりと次々に浮かび上がってくる。
日本語の力強さと同時に、温度や湿度まで味わえます。
文学は苦手な人でもすんなり読めます。
朝霧・青電車その他 (講談社文芸文庫)
中学生ころだったか、教科書に「黒い御飯」が載っていた。
三人の男兄弟の末っ子が、小学校入学前を回想し、父や家族との思い出を語るという作品。
「頬のこけた、髭をはやした顔、そして自分で染め直した外套を着て、
そろそろ、そろそろ、下駄を引き摺るようにして歩く父の影が、私の心へ蘇える。」
ある4月1日、父が突然、家の台所にある釜を使って兄の紺がすりを染め直し、
主人公が新たに学校へ着ていく服にする、と言った。
その翌朝。「綺麗好きの母が、あれ程よく洗った釜で炊いた、その御飯はうす黒かった。
うす黒い御飯から、もうもうと湯気が上がった。
『赤の御飯のかわりだね』
誰かがそんなことを云う。」
国語の先生が「この『赤の御飯のかわりだね』がもつ意味を、よく考えてください。」と言ったのを今でも覚えている。
「黒い御飯」は、文庫本でたった6ページの小品。
だが、表題となった「黒い御飯」についてのくだりは最終ページまで出てこない。
読者は表題を知っていても、内容との関係がつかめないまま読み進むことになる。
ほかにもこの作品集には、表題の趣旨が最後の方まで読み進まないと出てこない作品が多い。
「菜の花」「往来」「朝霧」…
それらの作品は読み進めるうち表題が何だったかも忘れてしまうが、
ある瞬間、「ああ、こういう意味で、この題がついてたんだ」と、ぱあっと広がる瞬間が来る。
読者はそこで文字通り“膝をうつ”。読者の心を掴んで持って行く描写力は本当にうまいと思う。
あと、この作者がうまいと思うのは、会話の描写。
簡潔だけど、人物がちゃんと描けている。
「往来」の、主人公と妻と2人の幼い子どもの会話は、無駄な記述がなく、
本当に実在の家族の日常会話を切り取ったように新鮮で、それでいて小説の味も十分出ている。
最近の作家も少し、永井龍男作品から会話描写の術を学んだほうがいい。